タイ北部、チェンマイ郊外の工場
チェンマイの市街地から車で40分ほど走ると、田んぼと果樹園のあいだに工業団地が点在しています。
タイの地方工業団地は、バンコク近郊のそれとは少し雰囲気が違います。整然としているけれど、どこか生活のにおいがする。通勤の従業員が乗ったソンテウ(乗り合いトラック)が工場の正門前に停まり、笑い声を上げながら降りてくる。そういう、人間くさい場所です。
わたしがその工場を初めて訪れたのは、ある日系電機メーカーの製造拠点の改善支援がきっかけでした。工場の規模は中規模。従業員は800名ほど。主にモーター部品の組み立てと検査を行っていました。
最初に通された会議室で待っていたのが、その工場長でした。
年齢は当時50代前半。タイ人の方です。工場長というと、日本では「現場の叩き上げ」というイメージがあるかもしれません。でもその方は、どちらかというと静かな印象でした。握手するときの手は乾いていて、声は低く、目が落ち着いていました。
「よく来てくれました。先生のことは、以前バンコクのセミナーで少し聞いたことがあります」
そう言って、わたしを工場内に案内してくれました。
「3年前は、ひどい工場でした」
工場の中を歩きながら、工場長はぽつりとそう言いました。
「3年前は、本当にひどい状態でした。不良率が高くて、クレームが続いて、従業員の離職率も業界平均の2倍以上ありました。日本本社からは毎月のように改善指示が来て、わたしも正直、もう辞めようかと思ったこともあります」
工場内は清潔でした。作業台は整理されていて、通路には不要なものがない。各ラインには手書きのメモが貼られていて、そこには数字と短いコメントが書かれていました。日本語でも英語でもなく、タイ語で。
「あのメモは?」
工場長は少し嬉しそうな顔をしました。
「現場の担当者が、自分で書いています。今日の目標、昨日と変わったこと、気になっていること。毎朝15分、そこに立って書く。そういう習慣を、ここ2年かけてつくりました」
何が変わったのか
3年前と今とで、いったい何が変わったのでしょう。
設備は、ほぼ同じでした。生産ラインの大きな更新はなし。新しいITシステムの導入もなし。予算が劇的に増えたわけでもない。日本本社から優秀な専門家が派遣されたわけでもありません。
あえて言えば、変わったのは「問い方」でした。
工場長はこう言います。
「以前は、問題が起きたら『誰がやったか』を聞いていました。でも3年前から、『なぜ起きたか』だけを聞くようにしました。人を責めない。プロセスを見る。そう決めたんです」
これだけを聞くと、「よくある話」に思えるかもしれません。失敗を責めない文化の大切さは、どのビジネス書にも書いてあります。わたしも何度も聞いてきた言葉です。
でも、この工場長が「違う」と感じたのは、その実践の仕方でした。
工場長が毎朝していたこと
その工場長は、毎朝7時に工場に来て、生産ラインを1時間かけて歩いていたそうです。
ただ歩くだけではありません。必ず、誰かに声をかける。「おはよう」だけじゃなく、「昨日、何か気になることあった?」と聞く。毎日、必ず。
「最初は、みんな黙っていました。工場長に何かを言うと、叱られると思っているから。タイでも、日本でも、どこでも同じです。上の人に本当のことを言うのは、怖い」
それが変わり始めたのは、3カ月ほどたったころだったといいます。
あるオペレーターの女性が、こっそり声をかけてきました。
「工場長、あのライン、なんか変な音がするんですけど」
工場長はその場で立ち止まって、一緒に確認しに行った。そして、その音が小さな設備トラブルの前兆だったことがわかった。大きなラインダウンになる前に、未然に防げた。
翌日の朝礼で、工場長はそのオペレーターの名前を呼んで、全員の前で言いました。
「彼女が昨日、大切なことを教えてくれました。このラインのトラブルを防げたのは、彼女のおかげです」
それだけでした。特別な報酬があったわけでも、昇格があったわけでもない。でも、それ以来、現場から声が上がるようになっていった。
「変えた」のではなく、「聴いた」のだった
わたしがこの工場を訪れてから数時間後、工場長と小さな休憩室でコーヒーを飲みながら、こんな話をしました。
「工場を変えるために、何か特別な勉強をしましたか?」
工場長はしばらく考えてから、こう答えました。
「特別なことは、していません。ただ、以前よりも聴くようにしました。現場の人が言いたいことを、最後まで。途中で口を挟まないで」
「それだけですか?」
「それだけです。でも、それが一番難しかったです」
その言葉が、ずっと頭に残っています。
製造業の改善、というと、わたしたちはすぐに「設備」「ツール」「システム」「予算」を考えます。もちろん、それらは必要です。でも、この工場長が3年で変えたのは、そのどれでもなかった。
変わったのは、コミュニケーションの流れでした。情報が下から上へと動き始めた。問題が隠れなくなった。現場の人が「言ってもいい」と思えるようになった。
その変化をもたらしたのは、億単位の投資でも、最新のAIシステムでもなく、工場長が毎朝1時間、現場を歩いて、「昨日、何か気になることあった?」と聞き続けたことでした。
30カ国で出会った「変革を起こす人」の共通点
わたしは、前職の大手ケミカルHD時代から、2014年11月の独立を経て現在まで、製造業の現場を30カ国以上で見てきました。
タイ、インドネシア、マレーシア、ベトナム、インド、バングラデシュ、中国、韓国、台湾。中東や東アジアではサウジアラビア、UAE、カタール、トルコ、トルクメニスタン。欧州ではドイツ、フランス、オランダ、チェコ、ポーランド。そして北米、南米。
業種も違います。自動車部品、電機電子、半導体材料、食品、医薬品、化学、繊維、包装材料。工場の規模も、10名の小工場から数万人の大規模コンビナートまでさまざまです。
その中で、わたしはずっと気になっていたことがあります。
「なぜ、似たような条件なのに、変われる工場と変われない工場があるのか」
設備が同じでも、結果が全く違う。予算規模も似ているのに、改善のスピードが10倍違う。技術レベルも同等なのに、片方はどんどん進化していき、もう片方は毎年同じ問題を繰り返す。
その違いを生み出しているのは何か。
長い時間をかけて観察し続けた結果、わたしはある共通点に気がつきました。
それは、「問い続けている人がいるかどうか」でした。
「問い続ける人」とは何者か
ここで言う「問い続ける人」は、特別なスキルを持った人ではありません。
MBA取得者でも、工学博士でも、カリスマ的なリーダーでもない。
チェンマイの工場長のように、毎朝現場を歩いて「昨日、何か気になることあった?」と聞き続ける人。問題が起きたとき、「誰が悪いか」ではなく「なぜ起きたか」を問い続ける人。現場の声に、最後まで耳を傾け続ける人。
そういう人が一人いるだけで、工場の空気が変わります。
情報の流れが変わります。文化が変わります。そして、数字が変わります。
この連載「現場の賢者たち」は、その「問い続ける人」たちの話を集めたものです。
30カ国の現場で出会った、変革を起こした人たちの共通点。彼ら彼女らが何をしていたか、何をしていなかったか。そして、そのような人をどう育てるか、どう組織に根付かせるか。
技術の話は、最小限にとどめます。AIやDXのツール論でもありません。
あくまで「人と組織」の話です。
製造業の現場で、30年以上にわたってわたしが見てきたこと、学んできたこと、失敗してきたことを、できるだけ正直に書いていきたいと思います。
なぜ、今この連載を書くのか
わたしがnoteで「生成AI・フィジカルAI実践導入編」という連載を書いてきたのは、AIやデジタル技術が製造業の現場にどう使えるか、という問いへの答えを探していたからです。
その連載を書き終えて、わたしの中に残ったのは、ひとつの確信でした。
「道具がいくら良くなっても、使う人が変わらなければ、現場は変わらない」
AIは素晴らしいツールです。これからの製造業に欠かせないものになっていく。それは間違いないと思います。でも同時に、AIを使いこなせる現場をつくるのも、AIに頼りすぎない判断をするのも、最終的には「人」です。
チェンマイの工場長は、生成AIを使っていませんでした。デジタルツインも、IoTセンサーも、ありませんでした。それでも、3年で工場を変えた。
その力はどこから来たのか。
その問いに向き合うのが、この連載の目的です。
ぜひ、最後までお付き合いください。
この連載の構成
・ 第1話:変革を起こす人と、起こせない人〜30カ国で見た「たった一つの違い」
・ 第2話:インドネシアの22歳オペレーターが教えてくれたこと
・ 第3話:「現場リーダー」の育て方〜日本型OJTが機能しなくなった理由と代替設計
・ 第4話:失敗を「資産」にする組織と、「隠蔽」する組織
・ 第5話:多国籍チームのマネジメント〜文化の違いを「障壁」から「武器」にする
・ 第6話:「生産性」という罠〜数字で測れないものが現場を支えている
・ 第7話:AIに仕事を奪われる前に、人にしかできないことを設計する
・ 第8話:変革が「続かない」理由〜熱量が冷めた後に何を仕組み化するか
・ 第9話:次世代リーダーへのバトンの渡し方〜経験をどう言語化・継承するか
・ 第10話:「現場の賢者」が育つ会社の条件〜組織文化の設計図
・ Epilogue:30カ国で学んだ最後の問い〜「あなたの現場には、問い続ける人がいるか」
引用文献・参考資料
・ Peter Senge, The Fifth Discipline: The Art and Practice of the Learning Organization, Doubleday, 1990
・ Amy Edmondson, The Fearless Organization, Wiley, 2018(邦訳:『恐れのない組織』英治出版)
・ 野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』東洋経済新報社、1996年
・ 遠藤功『現場力を鍛える』東洋経済新報社、2004年
・ 中村文子・ボブ・パイク『研修デザインハンドブック』ヒューマンバリュー、2017年
・ JETRO「タイの投資環境」2023年度版
・ タイ工業省・BOI(タイ投資委員会)産業統計データ、2022〜2024年
・ ILO, World Employment and Social Outlook, 2024
・ McKinsey Global Institute, The Future of Work After COVID-19, 2021
・ Deloitte Insights, 2024 Global Manufacturing Industry Outlook
著者プロフィール
畠山 達彦 株式会社DCTA 代表取締役
大手ケミカルHDの事業会社にて機能性樹脂事業の責任者を務め、素材開発・加工技術・工場設計・生産管理に至るバリューチェーン全体の意思決定を担う。30カ国以上の事業運営を統括した後、2014年11月に独立し株式会社DCTAを設立。製造業の環境規制対応(PFAS・EU CRA等)、IoT/AI/デジタルツインを活用したスマートファクトリー構築、アジアでの資源循環ビジネス開発を中心としたコンサルティングを展開。湘南・横浜を拠点に、東南アジア・中東・インド・欧州・米国で活動中。NewsPicks EXPERT AWARD 2024 ベストフラッシュ・オピニオン部門 受賞。
会社URL https://www.dctainc.com/
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