〜ホルムズ海峡封鎖が暴いた「日本の急所」と、そこからの脱出地図〜
【今日の数字】
▶アジア向けナフサ価格:開戦前比60%以上高騰(2026年3月〜継続中)
▶三菱ケミカル:エチレン生産設備の稼働率削減を継続中
▶日本国内のナフサ民間在庫:約20日分(国家備蓄対象外)
▶日本の石油化学原料に占めるナフサの割合:約90〜95%
■ まず正直に聞きます 「ナフサって何ですか?」
製造業に関わる方でも、「ナフサ」という言葉を正確に説明できる人は意外と少ないかもしれません。化学系の部署にいた方や調達担当者なら日常語として使っているはずですが、営業・経営・管理部門の方にとっては「原油の仲間?」「ガソリンと何か違うの?」という感覚ではないでしょうか。
この連載を最大限に活かしていただくために、まず第1話でナフサの「正体」を、現場目線でしっかりお伝えしたいと思います。難しい化学の話は最低限にして、「なぜこれが止まると日本中が困るのか」という構造に絞って解説します。
■ ナフサとは何か 原油の「おいしいところ」
ナフサ(Naphtha)は、原油を蒸留したときに得られる石油留分のひとつです。原油は精製所で加熱され、沸点の違いによってさまざまな成分に分離されます。ナフサの沸点帯はおよそ30〜200℃で、ガソリン(30〜180℃)と灯油(150〜250℃)の中間あたりに位置します。
「ガソリンとほぼ同じじゃないか」と思われるかもしれません。確かに化学的には近い存在です。ただし、ガソリンが「エンジンの燃料」として使われるのに対し、ナフサは主に「化学品の原料」として使われます。ここが最大の違いです。
ナフサは燃やして使うのではなく、「分解して化学品の原料にする」ために使います。これを理解することが、すべての出発点です。
具体的には、ナフサは「ナフサクラッカー(分解炉)」と呼ばれる巨大な設備で、800〜900℃という高温で熱分解(スチームクラッキング)されます。この分解によって生まれるのが、エチレン・プロピレン・ブタジエン・ベンゼンといった「基礎化学品(石油化学基礎原料)」です。これらが、現代の化学産業のすべての出発点になります。
図1:原油蒸留とナフサの位置づけ

■ ナフサから何が生まれるのか 川上・川中・川下の連鎖
ナフサクラッカーで分解されたエチレン・プロピレン等の基礎化学品は、石油化学コンビナートの「川上」に位置します。ここから、川中・川下へと連鎖的に製品が生まれていきます。
表1:ナフサ川上〜川下の連鎖構造

この連鎖を「川上→川中→川下」の順に、少し詳しく見てみましょう。
● 川上:基礎化学品(ナフサクラッカーの直接産物)
ナフサクラッカーから直接生まれる主な基礎化学品は以下の通りです。
エチレン(Ethylene):最も重要。ポリエチレン・塩化ビニル・酢酸ビニル等の出発原料
プロピレン(Propylene):ポリプロピレン・アクリル系樹脂・フェノール等の出発原料
ブタジエン(Butadiene):合成ゴム(SBR・BR)・ナイロンの出発原料
ベンゼン(Benzene):フェノール・スチレン・ナイロン・染料の出発原料
トルエン・キシレン:塗料・溶剤・PET樹脂の出発原料
● 川中:中間化学品・モノマー・ポリマー
基礎化学品をさらに反応・重合させると、プラスチックや合成繊維の素材になる「中間化学品」が生まれます。
ポリエチレン(PE):最も生産量が多いプラスチック。食品袋・容器・パイプ・電線被覆
ポリプロピレン(PP):自動車部品・食品容器・不織布・医療機器
ポリ塩化ビニル(PVC):建設資材(配管・床材・窓枠)・電線被覆・医療チューブ
ポリスチレン(PS)・ABS樹脂:家電製品・電子機器ケース・食品容器
ナイロン(PA)・ポリエステル(PET):繊維・フィルム・エンジニアリングプラスチック
合成ゴム(SBR・BR):タイヤ・ベルト・ホース・靴底
● 川下:最終製品(あなたの生活・工場の中にあるもの)
川中の素材がさらに加工・成形されて、私たちが日常的に使っている最終製品になります。
食品・飲料:包装袋・ペットボトル・食品トレー・ストロー・フタ
医療・医薬品:注射器・点滴バッグ・医療用チューブ・手術用グローブ・カプセル容器
自動車:バンパー・ダッシュボード・シート・燃料タンク・配線被覆・タイヤ
建設・住宅:水道管・電気配管・床材・断熱材・窓枠・接着剤
電子・半導体:基板封止材・コネクター・ケーブル被覆・ディスプレイ部材
農業:農業用フィルム・肥料袋・農薬ボトル・農業用ホース
繊維・衣料:ポリエステル・ナイロン・アクリル・スパンデックス
図2:ナフサ川上〜川下の連鎖フロー図

■ 「血液」という比喩が正確な理由
ナフサを「現代文明の血液」と呼ぶのは、単なる比喩ではありません。血液が体の隅々に酸素と栄養を運ぶように、ナフサは化学産業の川上から川下へと「素材の源泉」を届けます。そして、血液が止まったとき人体に起きることと、ナフサが止まったとき産業界に起きることは、驚くほど似た構造をしています。
まず末端(川下)から影響が出始める。心臓(川上)に近いほど影響が遅れる。
一部が止まっても全体は動くが、複数箇所が止まると全身が機能不全に陥る。
回復には時間がかかる。「止まったから即座に元に戻る」とはならない。
代替品(輸血)はあるが、完全な代替には限界がある。
在庫20日分という数字が意味するのは、「20日で血が止まる」ということではありません。ただ、20日というのは産業の世界では非常に短い期間です。設備のトラブル対応、代替原料の手配、顧客への説明。これらをすべて20日以内に完結させなければならない。その現実感を、まず持っていただくことが大切です。
■ ナフサクラッカーはどんな設備か 「工場の中の工場」
少し設備の話をさせてください。ナフサクラッカーは、日本語では「ナフサ分解炉」や「エチレンプラント」とも呼ばれます。石油化学コンビナートの中核設備であり、その規模は想像を超えるほど巨大です。
典型的なナフサクラッカーの建設コストは数百億円〜数千億円規模。建設から本格稼働まで5〜7年かかることも珍しくありません。一度稼働し始めたら、24時間365日止めずに運転する「連続プロセス」が基本です。定期点検(定修)のために年1〜2回程度停止する以外は、ほぼ止まりません。
この「巨大かつ止められない」という設備の性質が、ナフサ供給が滞ったときの対応の難しさにも直結します。原料が来なければ稼働率を下げるしかなく、稼働率を下げれば固定費の回収ができず、採算が急速に悪化します。
三菱ケミカルが今回のホルムズ封鎖を受けてエチレン生産設備の稼働率削減を開始したのは、まさにこのメカニズムが働いているためです。
表2:日本の主要ナフサクラッカー稼働状況

■ ホルムズ封鎖が「なぜここまで波及するか」 3つの連鎖メカニズム
「ホルムズ海峡が封鎖されたからといって、なぜ日本の工場に影響が出るのか」という疑問を持つ方もいるかもしれません。地理的に遠く、間に多くの企業が介在しているように見えますが、実はわずか3つのステップで直結しています。
● メカニズム①:供給量の急減
日本が輸入するナフサの約74%は中東産です。ホルムズ海峡はペルシャ湾から外洋へ出る唯一の出口であり、中東産ナフサを積んだタンカーはすべてここを通過します。封鎖されれば、中東産ナフサの供給が物理的に届かなくなります。
代替ルートとしてはアフリカ南端(喜望峰)を回るルートがありますが、通常ルートと比べて輸送日数が2〜3倍に延び、コストも大幅に増加します。現在、代替調達を試みる動きはありますが、全量を置き換えることは現実的に不可能です。
● メカニズム②:価格の急騰
供給が減れば価格が上がる。これは市場の基本原理です。ただし、今回のナフサ価格の上昇幅(60%以上)は、単純な需給バランスの変化だけでは説明できません。「戦争リスク」という不確実性が価格に上乗せされているためです。
船舶保険(戦争リスク保険)の保険料率が急騰し、それが輸送コストに上乗せされます。さらに、「今後さらに上がるかもしれない」という先高観がスポット市場での投機的な動きを生み、価格をさらに押し上げます。製造業のコスト構造は、この二重の価格上昇に直撃されます。
● メカニズム③:在庫の消耗と川下への波及
供給が減り価格が上がると、石油化学コンビナートは在庫を取り崩しながら生産を継続しますが、それにも限界があります。在庫が底をつく前に、「稼働率の削減」という選択をせざるを得なくなります。稼働率が下がれば、川中・川下への基礎化学品の出荷量が減り、樹脂メーカー→部品メーカー→完成品メーカーという順で玉突き的に影響が広がります。
図3:ホルムズ封鎖から日本の製造業への3つの連鎖メカニズム

■ 「10分で理解する」のまとめ 5つのポイント
少し長くなりましたが、第1話の内容を5つのポイントで整理します。
【第1話 5つのポイント】
① ナフサは原油から作られる石油留分で、「燃料」ではなく「化学品の原料」として使われる
② ナフサクラッカーで分解されたエチレン・プロピレン等が、現代のプラスチック・合成ゴム・合成繊維すべての出発点
③ 川上(基礎化学品)→川中(樹脂・素材)→川下(最終製品)という連鎖があり、川上が止まれば川下は必ず影響を受ける
④ ホルムズ封鎖は「供給急減・価格急騰・在庫消耗」という3つのメカニズムで日本の製造業に直撃する
⑤ 日本のナフサ在庫は民間で約20日分。国家備蓄がないため、「時間との戦い」が既に始まっている
■ 次話予告
第2話では「なぜ日本だけがナフサ95%依存なのか」を深掘りします。米国のエタンクラッカー、中国のMTOプロセス、欧州のガスクラッカーと比較しながら、日本だけが「ナフサ一本足打法」を続けてきた構造的な理由を解剖します。「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」日本特有の問題構造に、正面から向き合います。
【引用文献・参考資料】
・ 経済産業省「石油化学産業の現状と課題」(2025年)
・ 石油化学工業協会「石油化学工業の現状2025」
・ 国際エネルギー機関(IEA)「The Future of Petrochemicals」
・ 三菱ケミカルグループ 統合報告書2025
・ 日本化学工業協会「化学産業における原料・エネルギーの動向」(2025年)
・ 資源エネルギー庁「石油統計速報」(2026年3月)
・ 石油化学新聞「ナフサ価格動向レポート」(2026年3月)
【著者プロフィール】
畠山 達彦 株式会社DCTA 代表取締役
大手ケミカルHDの事業会社にて機能性樹脂事業の責任者を務め、素材開発・加工技術・工場設計・生産管理に至るバリューチェーン全体の意思決定を担う。30カ国以上の事業運営を統括した後、2014年11月に独立し株式会社DCTAを設立。製造業の環境規制対応(PFAS・EU CRA等)、IoT/AI/デジタルツインを活用したスマートファクトリー構築、アジアでの資源循環ビジネス開発を中心としたコンサルティングを展開。湘南・横浜を拠点に、東南アジア・中東・インド・欧州・米国で活動中。NewsPicks EXPERT AWARD ベストフラッシュオピニオン賞2024/2025年連続受賞。
会社URL https://www.dctainc.com/
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