〜ホルムズ海峡封鎖が暴いた「日本の急所」と、そこからの脱出地図〜
2026年2月28日。
米国とイスラエルがイランを攻撃したその日から、日本のナフサ在庫の20日分というカウントダウンが始まりました。
Prologueから第10話まで、私はこの「数字」を起点に書いてきました。構造を解剖し、波及を追い、代替の現実を見つめ、2030年の地図を描こうとしました。
最後のEpilogueでは、数字や技術や政策の話を少し脇に置きます。
「今回の危機は、日本のものづくりに何を問うているのか」という問いに、現場を歩いてきた人間として、正直に向き合いたいと思います。
■ 半世紀、日本は何を繰り返してきたか
1973年。第一次オイルショック。
原油価格が4倍に跳ね上がり、日本中でトイレットペーパーの買い占めが起き、スーパーの棚が空になりました。製造業は操業短縮を余儀なくされ、GDPは戦後初のマイナス成長に落ち込みました。「二度と同じ過ちは繰り返さない」と誰もが思いました。
1979年。第二次オイルショック。
イラン革命と原油価格の再高騰。日本の製造業は、第一次ショックの記憶が薄れかけていたところに再び打撃を受けました。それでも省エネ・効率化・技術開発で乗り越え、日本は「省エネ大国」として世界に認められました。「今度こそ変わった」と思いました。
2022年。ロシアによるウクライナ侵攻。
エネルギー価格の高騰、サプライチェーンの混乱。「中東依存を減らさなければ」「原料調達を多様化しなければ」という言葉が、またもや産業界から聞こえてきました。
そして2026年。ホルムズ封鎖。
日本のナフサ在庫は20日分。国家備蓄の対象外。中東依存率74%。三菱ケミカルがエチレンの稼働率を下げ始めた。
半世紀にわたって、日本は同じ問いに直面してきました。 「中東依存を、今度こそ脱却できるか。」 そのたびに誓い、そのたびに忘れてきた。
これを「日本の怠慢」と断じることは簡単です。しかし私は、それだけとは思っていません。
危機が去れば価格は落ち着く。落ち着けば「今の設備でまだ回る」という判断が経済合理性として優先される。長期的なリスクを数値化する仕組みがなければ、目の前のコストが勝つ。これは企業経営の構造的な問題であり、日本だけの話でもありません。
それでも私が「今回は違う」と思う理由が、三つあります。
■ 「今回は違う」と思う三つの理由
理由①:外圧が今まで以上に強く・同時に来ている
EU規制(PPWR・CBAM・CEAP)、カーボンニュートラル宣言、顧客からのスコープ3対応要求。これらは「いずれ来るかもしれないリスク」ではなく、「法的義務・契約条件・取引継続の前提条件」として、今まさに日本の製造業に降りてきています。
過去の危機では、「危機が去れば戻れた」。しかし今回は、ホルムズ封鎖が解消されたとしても、EU規制は消えません。脱炭素の顧客要求は消えません。廃プラリサイクルの義務化は消えません。「危機が去った後も、変わる理由は消えない」これが今回の最大の違いです。
理由②:「先に動いた企業」の具体的な成功事例がある
信越化学工業は、数十年前に「米国にエタンクラッカーを建設する」という決断をしました。当時は「コストがかかる」「リスクがある」と言われた投資です。しかし今、ホルムズ封鎖という危機の中でその決断の果実を手にしています。
「先に動いた企業が果実を得る」という構造は、昔も今も変わりません。そして今、「先に動いた企業の実例」が日本にあることは、「自分たちにもできる」という具体的な根拠になります。信越化学工業が示したことは、「日本の化学企業に可能性がある」ということです。
理由③:世界が「脱炭素・循環経済」という方向で収束しつつある
エネルギー転換・資源循環・脱炭素は、一国の政策ではなく、世界規模のパラダイムシフトです。中東産油国でさえ「石油を売るだけの経済からの脱却」を国家戦略として掲げています。
このパラダイムシフトの中で、日本のものづくりが持つ「技術の精度・品質の信頼性・素材開発力・廃棄物管理の高度さ」は、新しい産業構造の中で競争優位になれる資産です。「脱炭素・循環経済の時代に、日本のものづくりの価値は上がる」そう信じる根拠が、今の世界の動きの中にあります。
■ 30カ国の現場で見てきたこと
私は大手ケミカルHDで30カ国以上の現場を歩き、2014年11月に独立して以来、東南アジア・中東・インド・欧州・米国の製造現場に関わり続けてきました。
その中で、危機を乗り越えた企業と乗り越えられなかった企業を、両方見てきました。
乗り越えられた企業に共通していたのは、技術力でも資金力でも規模でもありませんでした。
危機を乗り越えた企業に共通していたのは「意志」でした。 「この状況を、設計し直す」という意志。 「今すぐ答えが出なくても、動き続ける」という意志。 「一人で全部解決しようとせず、連携する」という意志。
インドネシア・バリでのAOTS技術派遣でも、中部ジャワのリサイクルタウン構想でも、私が感じたのは「制約の中でも前に進もうとする人間の力」でした。インフラがなくても、予算が少なくても、「どうすれば資源が循環するか」を考え続けている現地の人たちがいました。
日本の製造業の現場にも、その力は確かにあります。コンビナートの中で黙々と省エネに取り組む技術者。調達先を変えるリスクを引き受けながら代替材料の評価を続ける担当者。顧客に頭を下げながらも「データで説明すれば伝わるはず」と価格転嫁の資料を作る営業担当者。
その「現場の意志」が、日本のものづくりの根幹にあると、私は思っています。
■ 「意志」とは何か・・・三つの具体的な意味
「意志」という言葉は、精神論に聞こえるかもしれません。でも私が言いたいのは、具体的な三つのことです。
意志①:「今、投資判断をする」という意志
コストが高い。リスクがある。今すぐ効果が出ない。これらの理由で投資を先送りし続けることが「合理的判断」に見える瞬間があります。しかし第4話でお伝えしたように、信越化学工業は「合理的ではないかもしれないが、やる」という判断を数十年前にしました。
今この瞬間も、世界のどこかで「次の10年の競争力を決める投資判断」が行われています。ケミカルリサイクル設備への投資、LEGインフラへの参加、EU規制への先行対応、東南アジアとのパートナーシップ構築——これらは今日決めなければならない判断です。
「意志①」とは、「今すぐ効果が出なくても、将来の競争力のために今投資する」という、時間軸の長い判断をする意志です。
意志②:「一社では無理でも、連携して解決する」という意志
ナフサ依存から脱却するには、LEGインフラが必要です。しかし一社でLEG受入基地を作るのは難しい。ケミカルリサイクルの設備を作るには大きな投資が必要ですが、一社で抱えるのはリスクが高い。
欧米では、競合するはずのメーカー同士が「共同インフラ」「共同研究開発」「共同認証」という形で連携している事例が多くあります。日本の石油化学産業は、かつて「コンビナート」という形で共同インフラを成功させた経験を持っています。
「意志②」とは、「自社の競争優位を保ちながら、産業の課題については連携する」という、プライドと柔軟性を両立させる意志です。
意志③:「現場の声を、経営の判断につなぐ」という意志
日本のものづくりの現場には、「ここが問題だ」「こうすれば改善できる」という知恵が豊富に存在しています。しかしその知恵が経営判断に届かない、あるいは届いても「コストがかかる」「今期の業績に影響する」という理由で先送りされる——そういうパターンを何度も見てきました。
今回のナフサショックは、「現場が見えていた問題が、経営の問題として可視化された」という面もあります。現場の技術者・調達担当者・営業担当者が感じていた「このままでは危ない」という感覚を、経営が受け取り、判断し、投資に変える。
「意志③」とは、「現場と経営をつなぐ、組織としての意志」です。これが最も難しく、最も重要だと思っています。
■ 「ホルムズ封鎖は、日本へのラブレターだった」
少し大げさな見出しをつけました。でも、本気でそう思っています。
「ラブレター」というのは、「あなたに変わってほしい」という強いメッセージのことです。
日本が何十年もかけて積み上げてきた「ナフサ依存」「中東集中」「在庫20日分」「国家備蓄なし」という脆弱性。それが今回、世界の目の前に晒されました。
でも、その脆弱性の裏側に、強さもあります。
世界最高の分別収集インフラ。 廃プラスチックの品質管理技術。 30カ国で磨いてきたものづくりの精度。 半導体・医療・機能性材料での技術蓄積。 CLOMAやAOTSを通じた東南アジアとの信頼関係。 これらはすべて、「脱ナフサ・循環経済・脱炭素」という 新しい産業構造の中で、競争優位になれる資産です。
日本が直面している脆弱性は、見方を変えれば「日本が一番変わる理由を持っている」ということでもあります。
オイルショックのたびに変わろうとして、変わりきれなかった日本。でも今回は、EU規制という「変わらなければ市場を失う」という外圧が、同時にやってきています。
「今度こそ変われるか」という問いへの答えを、日本のものづくりは今まさに書こうとしています。
■ 読者の皆さんへ
この連載を最後まで読んでくださった方々は、製造業の現場で働いている方、あるいは製造業に関わるビジネスをされている方だと思います。
「あなたの工場の原料は、あと何日分ありますか」Prologueで投げかけたこの問いに、今この瞬間、正確に答えられる状態になっていただけましたか。
そして「では、来週から何をするか」という問いへの答えを、少しでも持ち帰っていただけたとしたら、この12話を書いた甲斐があります。
技術の話、規制の話、数字の話を、できるだけ正確に、できるだけ現場目線で書こうとしました。しかし最後に言いたいのは、技術でも数字でもなく、
「日本のものづくりは、まだ本気を出していない」 ということです。
設備が古くても、規模が小さくても、資金が限られていても、現場に「変わる意志」がある限り、日本のものづくりは変われます。
その意志を持つ一人ひとりの経営者・技術者・調達担当者・営業担当者の方々が、今この危機の中で動き始めることが、日本の石油化学産業の「2030年の地図」を書き直す力になります。
製造業の現場を30カ国以上歩いてきた人間として、その力を信じています。
2026年4月 横浜にて 畠山 達彦
【連載「ナフサ・ショック」全12話 目次】
Prologue:「あなたの工場の原料は、あと何日分ありますか」
第1話:ナフサとは何か 「現代文明の血液」を10分で理解する
第2話:日本だけが「ナフサ95%依存」 米国・欧州・中国との決定的な差
第3話:「今日から何が起きるか」 川上から川下への波及タイムライン
第4話:誰が「勝ち組」で誰が「負け組」か ナフサショックの恩恵と損失
第5話:ケミカルリサイクルは救世主になれるか 技術・コスト・スケールの現実
第6話:バイオナフサ・リニューアブルナフサの可能性と限界
第7話:リサイクルを「本気」で考える 日本・欧州・米国・東南アジアの取り組みの差
第8話:再生可能エネルギーは「ナフサ問題」を解決できるか
第9話:中小製造業が今すぐできること 原料リスクの「自社診断」と対策の優先順位
第10話:2030年の石油化学産業地図 「ナフサ後」の世界を設計する
Epilogue:「今回の危機は、日本に何を問うているのか」
【引用文献・参考資料】
・ Prologue〜第10話の各話引用文献を参照(各話末尾に掲載)
・ 石油化学工業協会「石油化学工業の現状2025」
・ 経済産業省「石油化学産業の現状と課題」(2025年)
・ AOTS技術派遣報告書「インドネシアプラスチック廃棄物と循環経済発展支援」(2026年2月)
・ CLOMA(クリーン・オーシャン・マテリアル・アライアンス)「活動報告書2025」
【著者プロフィール】
畠山 達彦 株式会社DCTA 代表取締役
大手ケミカルHDの事業会社にて機能性樹脂事業の責任者を務め、素材開発・加工技術・工場設計・生産管理に至るバリューチェーン全体の意思決定を担う。30カ国以上の事業運営を統括した後、2014年11月に独立し株式会社DCTAを設立。製造業の環境規制対応(PFAS・EU CRA等)、IoT/AI/デジタルツインを活用したスマートファクトリー構築、アジアでの資源循環ビジネス開発を中心としたコンサルティングを展開。湘南・横浜を拠点に、東南アジア・中東・インド・欧州・米国で活動中。NewsPicks EXPERT AWARD ベストフラッシュオピニオン賞2024/2025年連続受賞。
会社URL https://www.dctainc.com/
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日本のものづくりは、まだ本気を出していない 畠山 達彦